白鳥の湖(初演当時失敗に終わったのに永遠に残る作品となったのは・・・)

白鳥の湖はチャイコフスキーの3大バレエ(白鳥の湖・眠りの森の美女・くるみ割り人形)の中で最初に書かれた作品です。全4幕で台本はベギチェフ、ゲルツァー。振付ライジンガー、音楽チャイコフスキーで1877年モスクワ帝室ボリショイ劇場で初演されましたが、当時の聴衆に全く受け入れられず失敗に終わったというのも有名な話です。それはこの作品が初演された当時には画期的なものだったからでしょう。ボリショイ劇場監督官の依頼により作られたのですが、題材についても依頼されたのかは定かではありません。チャイコフスキーはこの作品の依頼を受ける4年前にドイツのムゼウスという作家の童話「奪われたヴェール」をもとにして「白鳥の湖」という短編バレエ音楽を姪のために作曲していて、この作品をもとにして、劇場監督官のベギチェフ氏と舞台総監督のゲルツァーが共同で全4幕の「白鳥の湖」の台本を作成し、これに改めてチャイコフスキーが音楽を書き上げた・・というのが有力な説だとされています。
  ゲルツァーらによって書かれた台本には劇の内容や舞踊手の動きなどが細かく指定されていて、チャイコフスキーはこれに従って作曲を進めていきました。このときチャイコフスキーは論理的で独創的なバレエ音楽となるよう心がけたそうで、ジゼルを作曲したアダンの作品やワーグナーの楽劇の作品の研究にも多くの時間を費やしたということです。そうして生まれた「白鳥の主題」は、ワーグナーの「ローエングリン」第1幕3場で白鳥の騎士がエルザに警告を与える曲の旋律の断片(モチーフ)を借用しています。オーボエ独奏によるこの主題は第1幕の終曲、第2幕の冒頭と終曲、第4幕の終曲にも使われています。また王子は二長調、オデット姫はイ短調、ロットバルトはへ短調、そして王子とオデットの愛の場面にはへ短調といったふうに登場人物ごとに調性を定めることによってそれぞれに個性を与えています。そして#系の音楽と♭系の音楽を効果的に使うなど斬新な手法を取り入れ、全曲を交響楽的に処理し、音楽は台本に忠実に沿って計算され尽した構成になっているのです。それまで、バレエ音楽の大半は2流の作曲家によって書かれていて、踊りの伴奏としての単純な曲が多く、そういうものに慣れ親しんでいた聴衆にはチャイコフスキーの音楽はすぐには受け入れられなかったのでしょう。それに加えて衣装や美術もそのために作ったものではなかったこと、振付家ライジンガー、指揮者リャーボフもあまり独創的な人物ではなかったこと、更に主役オデットを踊ったカルパコワも全盛期を過ぎたダンサーであったこと等々が重なって、「白鳥の湖」の初演は大失敗に終わったのだそです。(小倉重夫氏のバレエ音楽百科より)

 後にチャイコフスキーに新作バレエ「眠りの森の美女」の作曲を依頼したサンクトペテルブルクの帝室マリンスキー劇場の監督官ウセヴォロジュスキーが、1886年に「白鳥の湖」の上演を持ちかけますが、再度の不評を恐れ実現されませんでした。しかしウセヴォロジュスキー監督官はこの企画を諦めませんでした。1890年にこの監督官による台本、帝室マリンスキー劇場専属の名振付師プティパの振り付け、チャイコフスキーの音楽で初演された『眠れる森の美女』、更に1892年にはウセヴォロジュスキー監督官の依頼によりチャイコフスキーが作曲した「くるみ割り人形」も好評を得たことをきっかけに、1894年「白鳥の湖」の蘇演(復曲)をプティパに命じチャイコフスキーもそれを快諾していました。しかし1893年その実現を待たずにチャイコフスキーは急死してしまうのです。

チャイコフスキー死後ウセヴォロジュスキーはプティパ蘇演に力を注ぎました。1894年にまず2幕の湖畔の場を上演し成功させます。そしてチャイコフスキーの弟モデストによって改訂された台本に合うように指揮者ドリゴはチャイコフスキーが他界した年に書いたピアノ曲作品72より3曲を選び、オーケストラ用に編曲し2幕と3幕に挿入するなどの手が加えられました。そうして1895年1月15日帝室マリンスキー劇場で「白鳥の湖」は蘇演され、大好評を得たのです。ここで初めて真価は認められロシアバレエが後世に残した最大の遺産の一つとして「白鳥の湖」は永遠の命を与えられたのだと小倉重夫氏は著書「バレエ音楽百科」の中で述べています。

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